お好み焼吉野でランチを食べてから、三十三間堂をさらに北へと向かい豊国神社と方広寺へ。
有名な三十三間堂や京都国立博物館も訪れまして、もちろんそれぞれ良いところです。個人的には三十三間堂はかなり好きな場所ですが、いろんなところで紹介されていますので、このブログではパス。よそを当たってください(笑)。
豊国神社そして、方広寺は誰もが知っている豊臣氏と徳川氏の対立、そして大阪冬の陣での豊臣滅亡のきっかけをつくった、歴史ある場所なのです。
豊国神社
豊国神社は、太閤豊臣秀吉をまつるために創建されましたが、その後に徳川の御代になり、寂れてしまいます。そして明治期になって再度復興を果たすという紆余曲折のあった神社です。
さすがに立派で、境内には豊臣秀吉の馬印であった千成瓢箪にちなんで、瓢箪がなっていました。(画像左隅のほう)
方広寺の鐘(国家安康と君臣豊楽)
しかし、メインは方広寺。方広寺は、豊国神社に隣接しています。本堂は、もうかなり年季の入った代物ですし、小さくてわざわざ訪れるというものではないかもしれませんが、重要文化財である梵鐘は一見の価値があります。
こちらが鐘ですが、画像中央やや左上のほうに、白い枠で囲った小さな文字のようなものが見えるでしょうか?
アップにしてみます。見にくいか(苦笑)。これには国家安康、そして君臣豊楽と刻まれています。
このわずか2つの言葉が鐘銘事件を引き起こし、大坂冬の陣のきっかけとなり、豊臣氏を滅亡へと導くのです。
鐘銘事件
梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる事件(wikipediaより引用)
俗説では徳川家康が豊臣氏と一戦交えるために、側近であった崇伝らと画策して問題化させた(難癖をつけた)というように言われていますが、wikipediaによれば、必ずしもそうではなかったようです(出典がwikipedeaなので、真偽不明ですが・・・)
いずれにしろ、この方広寺の鐘が豊臣と徳川の対立、そして大坂冬の陣へのきっかけの1つとなったことは間違いないようです。
しかし、こんな歴史の大事件の主役となった鐘が、ホイホイって感じでおいてあるのが、京都の懐の深さというのか、すごさですね。
鐘のところには、この事件について特に何も書いていなくて・・・、東京だったら絶対に観光資源にするでしょうに・・・、本当にさりげなくあるので見落としてしまいそうになりますが、歴史好きの方はぜひ訪れてみてください。
個人的には結構感動しました。
この後は二軒茶屋へかき氷と豆腐田楽を食べにいきます。